心理的柔軟性(しなやかさ)
ACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)では、6つの核となるプロセスがあり、それぞれのバランスを取りながら、真ん中にあるしなやかさ(心の柔軟性)の状態が保たれています。
バランスはいつも一定ではなく、各プロセスの増減(増えたり減ったり)は、常にあるのでそれによって心の柔軟性も変化します。
心のしなやかさは、ゴールとして目指すものではなく、日々刻々状態は変化しながら、時に心が固くなったり、囚われたりすることもあるが、観察により、バランスを修正し、またしなやかなこころに戻っていくというものです。
それは、常に「いま、ここ」にいる状態で、「いま、ここ」との接触を失ったときには、失っていることに気づくことによって再び、「いま、ここ」に戻っていくことができます。
観察する私は、「ただ観るだけ」なので、善し悪しをジャッジするわけではありません。
善し悪しという、2元論的な視点が、「しなやか」ではなく、「固い(頑なな)」状態を作っていきます。
6つのコアプロセス
では、コアプロセスの6つとは、なんでしょうか?
①アクセプタンス(心を開き、オープンにしておく)⇔体験の回避
②脱フュージョン(私と思考を切り離している)⇔認知的フュージョン
③いま、この瞬間との接触(マインドフルネス)⇔思考(過去や未来)への執着
④文脈としての自己(観察している自己)⇔概念としての自己
⑤価値(何が大切かを知る)⇔価値の欠如
⑥コミットされた行為(価値に基づく行動をとり続ける)⇔機能しない行動
※⇔は対のもの(心のしなやかさが減ること)
文脈としての自己
6つのコアプロセス全部を説明するのは難しいので、その中の1つである④文脈としての私を今日は、紹介しようとおもいます。
「見たり体験したりすることは、絶えず変化する。しかし、体験が常に変化するということに気づいている視点だけは同じままである」
引用元:職場のためのACT P28
全体を見渡せる上の視点から、観察している人が「文脈としての私」ということになります。
つぎの図では、それぞれの見方や立場に立った視点をもった人々が1つ1つの思考に例えられます。
それぞれが正しさを争いあったり、葛藤したりしている思考たちが、永遠に争いを続けています。(これら、1人1人の自己イメージ(思考)を持った私が、ACTで、「概念としての私」と呼ばれます。「わたしは○○な人間で、○○を好きだったり、××が嫌いで、どういう立場で、△△に所属する人です」といったアイデンティティを表明したりする自己です。)
しかし、それを見渡せる場所にいる「わたし」には全体像がわかります。
Eさんの視点からはEに見えるし、MさんからはMに見える。3さんからは3に見えるし、WさんからはWに見える。それぞれの視座からはそれぞれが正しい主張をしています。
視点としての自己
あまり色々な概念を持ち出すのは、複雑になってしまいますが、ACTではもう少しくわしく規定されているようですが、あくまで概念(つまり思考です)は概念でしかないので、私は「文脈としての私」のみで充分だとおもいます。
いちおう「視点としての私」というのものも理解してみましょう。
厳密にいうと上の例えは、「視点としての私」になります。それを理解するために、チェスボードのたとえというものがあるので、説明したいとおもいます。図を見てみてください。
図を見るとわかりますが、チェスボード上では、白(善とされる思考)と黒(悪とされる思考)が永遠に終わらない戦いを、飽くことなく繰り返しています。
善悪2元論というのは、白が存在するためには、同時に黒も存在します。思考の本質というのはそこにあります。
終わらせようとする思考は決して、終わりというものをもたらしません。思考がマッチポンプをして、次なる思考を作りだします。
「視点としての私」は、それら思考の動きの全体を観る視点です。そこには、それぞれの思考が持つ善悪などをジャッジするわけではありません。
ただ、観ているのみです。
「文脈としての私」は、ボードそのものといったところでしょうか?それぞれの駒が善悪を争ったりしているようですが、ボードは「ただ、そこにあり」現在しかないものです。すべての駒たちと接触しており、常に「いま、ここ」の全体に在ります。
まとめると、視点としてのわたし=観るもの、文脈としてのわたし=場 ということになります。
「視点としての私」の目から、観察をし、「いま、ここ」にとどまるには、それぞれが主張をしている思考を実況中継することです。
例えば、「いま、怒っている私がいます」とか、「イライラしている私がいます」とか、「虚しさを感じている私がいます」といったように。
瞑想とは何なのか?
マインドフルネスなどが広く知られるようになりましたが、人がなぜ瞑想をするのかの意味はよくわかりません。
ストレス低減などであれば、目的はわかりやすいです。
しかし、瞑想にはもっと高次の意味があります。
ストレス低減やレジリエンス、メンタルタフネスを養うという目的だけでも十分な役割はありますが…。
私たちが、ヨーガと呼んでいるものは、多くがハタ・ヨーガという起源が古い、身体意識に重きをおいたものだと思われています。
ヨーガとは合一、統一という意味で、何が合一するのかというところに意味があります。
少しスピリチュアルになってしまいますが、上位のものと下位のものとの合一です。
下位のものとは、沢山あるパーソナリティたちで、ここでいう「概念としての私(観察対象=みられる者)」です。
上位のものとは、「ただ観るもの(観察者=観る者)」です。
ヨーガでいうと、ジュニャーナ・ヨーガとか、ギャーナ・ヨーガ、つまり智慧のヨーガと呼ばれます。
それらは、「ネーティ、ネーティ」とすべてを否定しつくしていくものです。
例えば、「体は私か?」という問いに「否」と否定していく。
「感情は私か?」「否」、「思考は私か?」「否」というように、私のからだや私の思考といった、「わたしの○○」というとき、所有を表しています。
そのとき、「わたし」と「思考」は別のものということができます。
「私は誰か?」という問いを発するとき、問われている私ではなく、その質問を発している主体が私であるために、その質問を発するたびに、これから生まれ出ようとする「思考」の根を断ち切ることができます。
ほんとうの「私」とは、すべてを見ている観察者であり、観照者です。
それがここでいう「視点としての私」に対応する「名もなき本当の私」ということになるのかもしれません。
ACTと文脈としての私を説明しようとしたのに、少しスピリチュアルな方向になってしまいます。
ご容赦を。